写真を撮る目的は人それぞれだが、自分自身が写真に向き合う姿勢について考えたことがあるだろうか?
カメラやレンズの性能にばかり意識が向き、本人は写真が好きなつもりでも実は写真ではなくカメラが好きだったという人は多い。自分はカメラが好きなのか?それとも写真が好きなのか?今後も充実した写真ライフを楽しむためにも少しだけ考えてみてほしく、この記事を書いてみた。
カメラ派と写真派の違いとは?
「今度の新製品のカメラはどんなスペックだろう?」、「このレンズの開放F値は?」、「ボケ具合は?」といったようにカメラそのものに興味があり、機材の話をするのが好きな人は典型的なカメラ派である。
一方、写真派といえば「この光線具合がよかった」、「もう少し暗くなるまで粘れば、もっと深みのある写真が撮れたのに」、「決定的瞬間が撮れた」といった具合に、あくまでも作品作りがメインであり、カメラは写真を表現するための道具にすぎない。
もちろん、これは明確に二分化できるものではなくすべてのカメラマンはこの両方を持ち合わせている。
とは言え自分はどちら側に意識が向いているのかを知ることで写真への向き合い方も変わってくる。

機材の知識ばかりに囚われすぎるな
たとえば「フルサイズでなければ良い写真は撮れない」、「これは解像度が足りない」、「単焦点レンズが一番」など、こんな考えに囚われすぎていないだろうか?
たしかにカメラ機材の性能は写真の写り方を大きく左右するので間違いではない。むしろ正論である。
しかし、機材の性能だけが「よい写真」を位置づける訳ではない。過去の写真作品の中には、今よりも性能の劣る機材で撮影された名作は数多い。
にも関わらず、それらの作品が多くの人々の心に焼き付いているのはなぜか?それはカメラの性能以上に撮影したカメラマンが持つ視点や感性のすべてに尽きる。
あまりにもカメラやレンズ性能ばかりに固執し続けるのは良い作品を作る上で弊害になる恐れもある。
たとえば
・上の機材にばかり目が向くことで今持っている機材で作品を作る創作性を失いかねない。
・「このカメラやレンズでは撮れない」との思い込みでそれ以上のチャレンジ精神を逃す。
・技術面での写り方にばかり目が向き、自分ならではの表現方法を探る力がつかない。
カメラ機材の性能を理解することは大切なこと。とはいえ機材はあくまで自分が写真で表現したいことを映像化するためのツールにすぎないことを忘れてはいけない。
写真とはカメラが撮るものではない。写真を撮るのは、あくまでも人間である。

自分の「眼」を持つこと
写真の上達に必要なことは何か?
「撮影技術の向上」と考える人がもっとも多いのではないだろうか。もちろん、技術の向上は大切な要素である。
しかし、それ以上に大切なことは自分が伝えたいもの、表現したい想いを写真に込めることができるかどうか。
知識を学ぶことで一定の技術レベルに達することはできる。しかし、それ以上のレベルに行くには、その人の持ち合わせた感性、考え方が大きく左右する。
写真で人を感動させるには作者自身が感動しなければならない。
まさに自分の「眼」を持つこと。それこそが写真の学びそのものである。
さいごに
カメラ機材の性能を理解することは写真を撮る上で、とても大切だ。しかし、高性能の機材だけで良い作品を撮れる訳ではない。
何度も書くが、カメラやレンズは、あくまでも作品を作り出すための道具にすぎない。
自分自身が好きなのはカメラか?それとも写真なのか?それを知ることは今後の写真ライフを送る上でも大切なこと。
単なる趣味なら好きように楽しめばよい。しかし、少しでも写真が上達したい人や、仕事などで写真に関わる機会がある人であれば、少しの意識を変えるだけで撮れる写真の幅は各段に広がるだろう。
「今日はこのレンズ1本だけで撮ろう」あるいは「今日はスマホのカメラだけで表現してみよう」など、自分に制約を課して、その中であらゆる知恵をしぼって写真撮影に取り組むことは大きな学びにつながる。
ほんの少しだけ、こんなことを考えながら写真を見つめ直してみるのも良いのではないだろうか?

コメント