前回、品川宿から鈴ヶ森刑場跡までを歩きましたが、今回は大森から多摩川にかかる六郷橋を越えて東海道2番目の宿場町、神奈川県の川崎宿までを辿ります。
(前回、掲載した「東海道品川宿を歩く」はこちらからご覧いただけます)
江戸時代は梅の名所だった「聖蹟梅屋敷公園」
京急線の梅屋敷駅近くにある「聖蹟梅屋敷公園(せいせきうめやしきこうえん)」
この辺りは江戸時代、梅の栽培が盛んで毎年、梅の時期になると江戸市中から多くの見物客が訪れた梅の名所であり、当時、東海道を行き来する旅人にも憩いの場として親しまれました。
ちなみに現在の聖蹟梅屋敷公園は江戸時代から梅屋敷として著名だった当地に大田区が整備した公園です。
当時、大森には「和中散(わちゅうさん)」という道中常備薬を売る店が3軒あり、そのひとつが当地に移転。敷地内に休み茶屋を開業すると「梅屋敷」と評判になり、これは江戸時代の浮世絵師、歌川広重(寛政9年『1797年』~安政5年『1858年』)の作品にも「名所江戸百景 蒲田の梅林」として描かれています。
(参考資料=大田区ホームページ)
また明治元年(1868年)から明治30年(1897年)までの間に5回にわたって明治天皇の行幸があり、明治6年(1873年)の観梅の時には明治天皇自ら小梅一株を手植えされていることから、明治天皇の梅屋敷に対する想いの強さが伝わってきます。
(参考資料=聖蹟梅屋敷公園の案内板より)
梅屋敷から、しばらく歩くとまるで要塞のような京急蒲田駅の高架をくぐります。この先、雑色(ぞうしき)を経て多摩川を渡ると東海道2番目の宿場町、川崎宿。
ただ、川崎宿までの間にこの区間最大の難関が待ち受けます。
東海道最初の関門「六郷の渡し」
日本橋を出発して品川、大森、蒲田と東海道を進んできた旅人の前に現れるのが多摩川。
江戸時代、東海道の重要な渡河点だった多摩川は川幅が広く、雨で増水しようものなら渡河が困難になるなど当時の旅人にとって、一大関門でした。
この多摩川を渡す役割を果たしたのが「六郷の渡し(ろくごうのわたし)」です。
慶長5年(1600年)、徳川家康によって六郷大橋が架けられ、以来、修復や橋の架け直しが行われてきましたが、元禄元年(1688年)の大洪水で橋が流されてしまいます。
以来、幕府は架橋をやめ、明治時代に入るまで船渡しとなりました。
当初、江戸の町人が橋渡しを請け負っていたものの、寛永6年(1629年)から川崎宿が行うことになり、それによる渡船収入が川崎宿の財政を大きく支えました。
(参考資料=川崎市ホームページ)
川崎宿田中本陣とは?
六郷を渡り終えると、いよいよ東海道2番目の宿場町、川崎宿です。
江戸から京都に向かう旅人の多くが利用して栄えましたが、この川崎宿には休憩所の他、大名や幕府の役人など武士階級専用の「本陣」と呼ばれる特別な宿泊施設が存在しました。
川崎宿には3つあったといわれる本陣の中でも代表的なものが「田中本陣」です。
川崎宿のもっとも東側、つまり江戸に近いことから「下の本陣」と呼ばれ、作りも当時、一般の民家には許されなかった門や玄関構え、書院造りを取り入れた空間など、とても豪華なものでした。
参勤交代の導入とともに大名も東海道を行き来するようなり栄えたものの、江戸後期の大名家の財政難や参勤交代緩和などによって衰えが目立ち始め、安政4年(1857年)、田中本陣の荒廃ぶりを見たアメリカ駐日総領事のハリスが田中本陣を万年屋に変えました。
万年屋となった田中本陣は江戸から川崎大師へ参拝に向かう人々にも多く利用され、繁盛を取り戻しますが、明治元年(1868年)には明治天皇が東幸の際に田中本陣で昼食をとり、休憩した記録も残されています。
(参考資料=田中本陣跡地の案内板・東海道川崎宿起立400年記念プロジェクト推進会議サイト)
おわりに
今回は大森から川崎まで歩きながら東海道の歴史を辿りましたが、前回の品川宿に比べると川崎宿のほうが施設も充実して賑わっていた印象を受けました。
もっとも品川宿の場合、起点である日本橋からの距離も近く、旅立って間もない場所なのに対して川崎宿は六郷の渡しも越えて旅人もそろそろ疲れてくるあたり。
逆に京都から来る旅人には江戸に入る直前の宿でもあるので、それは賑わいも違うものと想像がつきます。
東海道を当時の歴史を紐解きながら辿るウォーキングは、とても楽しく勉強にもなるので今後も続けたく思いますが、とにかく暑い時期でもあるので次回は秋頃かな?(笑)
コメント